雨
湿った大気に、しとしとと物憂げな音が響く。連日の雨で景色は遠くかすみ、まるで色を失ったかのようだ。
そんな外の様子を、黙って眺めている者がいた。彼の名はエスカルゴン。この国・プププランドの大王である、デデデの側近だ。
エスカルゴンは机に体をもたせ掛け、そっとため息をついた。このところ、陛下はやけに張り切っている。今度こそ、あのにっくき星の戦士を倒すのだと、意地になっているのだ。今にも魔獣のカタログから目を上げて、自分を呼ぶに違いない――。そう考えると、エスカルゴンは一層憂鬱な気分になるのだった。
エスカルゴンは疲れていた。陛下のために日々働く彼は、夜も安心して寝ることができない。一旦何かを思いつくと、陛下は部下の事情など無視する。実際、夜中に叩き起こされたことが何度もある。
窓に伝う雨粒を見ながら、エスカルゴンは苦笑した。自分から進んでこの立場になったのだ。陛下に忠誠を誓ったあの日のことが、遠い昔の記憶のように思える。『いつか自分が王になる』。あの頃は、そんな野心を抱いていたものだ。
「お〜い、エスカルゴ〜ン」
その声に、彼はハッと我に返った。バタバタと廊下を走ってくる音がする。
(捕まってたまるか)
エスカルゴンはそっと自室を抜け出すと、逃げるようにその場を去った。
あてもなく城の中をさまよっていると、いつの間にか古い扉の前に来ていた。そこは、彼が暇な時によく入り浸っている図書室の入口だった。無意識のうちに足がここへ向かっていたのだろう。エスカルゴンは周囲に誰もいないことを確かめると、素早く扉の内側へ入った。
部屋に入った途端、カビ臭いにおいが彼を出迎えた。古い書物のにおい。彼はこのにおいを嗅ぐと、なぜか安心する。以前そのことを陛下に話したことがあるが、本嫌いな陛下は顔をしかめただけだった。それもそのはず、陛下は文字が読めないほど馬鹿――おっと、これは言わないでおこう。
エスカルゴンは適当な本を手に取ると、椅子に腰かけた。ページをぱらぱらとめくり、紙のにおいを楽しむ。さて内容はどうだろう…と本に視線を落とした彼は、それが子供向けの絵本だったことに気付いて棚に戻した。
本棚の迷路を通り抜けながら、彼は背表紙の文字をたどった。読みたい本はすぐには見つからなかったが、ただこうして歩いているだけでも彼には十分気晴らしになった。
「あら、エスカルゴン」
「…!?」
急に後ろから話しかけられ、エスカルゴンは驚いた。振り向くと、そこにはパーム大臣の娘・フームが立っていた。
「珍しいわね、こんなところで会うなんて。何か探してたの?」
「お、お前には関係ないでゲス。この頭でっかちの小娘」
つい悪口が出た。
しかしそんなことは気にもとめず、大臣の娘はおだやかに言った。
「あらそう。じゃあお邪魔しちゃ悪いわね」
フームは奥の棚へと姿を消した。
エスカルゴンは、彼女に悪口を言ったことを少しだけ後悔した。
棚で本を探す間も、彼はなんとなく落ち着かなかった。本という花を求めて舞う蝶さながらに、彼はうろうろと歩き続けた。
本棚を見ることに飽き、机に戻ると、すでにフームは熱心に本を読んでいた。邪魔になるのを承知で近づいていってみる。
彼女はなんだかよく分からない記号の列を見つめていた。
「何を読んでるでゲスか?」
「……」
「おい」
「…ちょっと黙ってて」
本から目を上げぬまま、フームはメモ帳と鉛筆を取り出し、記号のいくつかを書き写した。それをしばらく眺めたあと、彼女はエスカルゴンのほうを向いた。
「何の用?」
「いや、何を読んでるのかなーって思っただけでゲス」
「あんたには関係ないでしょ」
ぴしゃりと言われ、エスカルゴンはかたまった。
しばらくして、また彼女は口を開いた。
「…嘘よ。さっきの悪口のお返し」
彼女は立ち上がると、本を棚に戻した。
「そういえば、あなたは何の本を探していたの?」
「いや…ただなんとなくここに来ただけでゲス」
「ふうん」
フームは、それほど気にとめない様子で相づちを打った。
「ねぇ、あなたはいつもどんな本を読んでいるの?」
「ええと…陛下の道具の発明や、それを助ける研究に関する本でゲス」
エスカルゴンは口ごもりながら答えた。
「じゃあ、あなたが読みたい本を読む時間はないの?」
「え? いや、そんなことはないでゲスが…」
エスカルゴンは半分うわの空で返した。
なぜこの娘はこんなことを聞きたがるのだろう? 彼には理解できなかった。
「あなたは本当に陛下のためを思っているのね」
皮肉めいた言葉を残し、フームはそのまま図書室を出ていった。
再び沈黙が訪れる。
エスカルゴンは、すっかり本を読む気を失くしていた。
図書室を出て、エスカルゴンは再び歩き出す。こっそり玉座の間へ行って中を覗くと、夢中でお菓子をむさぼるデデデの姿が見えた。どうやら捜索を諦めたらしい。
(やっと自由になった)
エスカルゴンは安堵した。
素直に自室に戻る気もしなかったので、彼はこの気ままな散歩を続けることにした。
心地よい雨の音に誘われ、エスカルゴンは外に出た。傘を叩く雨音が音楽のように聞こえる。大気にあふれる湿気は、自分を包み込む柔らかな布のようだった。
やっぱり自分はかたつむりなのだ――そう感じた。
中庭に植えられた紫陽花。その葉の上に自分の仲間を見つけ、エスカルゴンはなんとも言えない気持ちになった。こんな気持ちになるのは、やはり彼らが同種だからだろうか。エスカルゴンは、たとえ自分のようにものを言うことはなくとも、彼らが自分の仲間だと信じていたかった。
エスカルゴンは、その小さな命を自分の手のひらに乗せた。
(自分がこのちっぽけな虫として生まれていたら、どんなに気楽だったろうか。あのうるさい陛下にも、言うことを聞かない人民どもにも悩まされず、ただ雨と共に生きていけたらどんなにいいか…)
エスカルゴンは傘を投げだした。雨に濡れるのも構わず、彼は城の外へと歩き出した。肩に触れる雨粒。湿った大気と一体になったような感覚。彼は今、全身で雨を感じていた。
(…はっ)
気付くと、あたりは夕焼け色に染まっていた。自分が何をしていたのか、全く思い出せない。城を出たところまでは覚えているが――。
足元に嫌な感触が広がり、慌てて立ち上がる。なぜかエスカルゴンはぬかるみに座っていたのだ。
(結局、誰も私のことを捜しにきてくれなかったでゲスなぁ…)
泥を払いながら、エスカルゴンは考えた。
(そろそろ戻った方がいいかもしれんでゲスなぁ)
日が沈んだらしく、あたりは急速に暗くなり始めている。城に灯りがともった。
エスカルゴンは、デデデの部屋があるあたりを睨んだ。
(フン。こんな時間になっても私を放っておく陛下なんぞ、もう知らんでゲス。しばらく陛下とは口もききたくないでゲス!)
エスカルゴンがそう考えた時だった。
……おーい…
雨の音に紛れて、かすかに人の声が聞こえる。
……おーい…
……おーい…エスカルゴーン…
それは聞き覚えのある声だった。いや、聞き覚えがあるどころではない。毎日聞いている声だ。
ほどなく、夕闇の向こうに懐中電灯の灯りが見えてきた。
エスカルゴンは、先ほどまで腹を立てていたことも忘れて声の主を呼んだ。
「陛下ー!!」
エスカルゴンは駆け出した。走って走って、とにかく走った。どんなに馬鹿で憎らしくても、やはりデデデは自分の主人に違いなかった。知らんぷりしているようでも、本当は部下のことを心配しているのだ。
エスカルゴンが駆け寄ると、デデデは一瞬だけ表情がゆるんだが、すぐに厳しい顔になった。
「こんなに暗くなるまでどこへ行っていたぞい、エスカルゴン!」
「ご…ごめんなさい、陛下…」
声が小さくなる。
デデデはさらに眉を吊り上げた。
「まったく…わしはものすごく心配していたんだぞい! なんで急にいなくなったりしたんだぞい!?」
「…ええと、それは――」
デデデはエスカルゴンの返事をさえぎった。
「フン、お前の事情なんぞどうだってよいぞい。それより、その格好はなんぞい! こんなにびちょびちょにして…傘はないのかぞい!?」
エスカルゴンが黙ったままでいると、デデデが何かを差し出した。
「ほら」
「…え?」
慌てて顔を上げる。デデデの手には傘が握られていた。
「そのままでは風邪を引くぞい。わしはお前に風邪など引いてもらいたくないからな…ほら、この傘をやるぞい」
「へ、陛下ぁ…」
傘を受け取る手が震える。胸がじーんとして言葉が出ない。とまどいながら主人の顔をうかがうと、陛下はいつの間にか笑っていた。エスカルゴンは目頭が熱くなった。
デデデはエスカルゴンが自分を見つめていることに気付き、再び怒ったような顔をした。
「その情けない顔はなんぞい! お前がそんなのだから、毎回カービィに負けるんだぞい!」
無茶苦茶な理屈だった。でも、それでこそ陛下だ。
「…? 何を笑っているんだぞい? わしはそんなにおかしいことを言ったかぞい?? …聞いてるのかぞい、エスカルゴン! おい、エスカルゴン!! …まったく」
デデデはエスカルゴンの手を握った。
「ほら、帰るぞい。こんなところでおしゃべりしてたら、夕飯が冷めてまずくなってしまうぞい。ほら、エスカルゴン! 早く行くぞい!」
ものすごい勢いで手を引っ張られながらも、エスカルゴンは満足だった。やっぱり陛下は無茶苦茶だ。でも、たまにこういうことがあるから部下をやめられない。
「陛下…」
「ん?」
「…ありがとうでゲス」
「…! な、何を言っとる!? ほら、そんなくだらないこと言う暇があるんだったら、さっさと城に戻るぞい! それとも、そこでずっとつっ立っていたいのかぞい?」
「えええ、いやいや、とんでもないでゲス! はい、もちろん私は戻るでゲスよ」
慌てて答えながら、エスカルゴンはちらっと中庭のほうを見た。紫陽花の葉の上、今もそこにいるであろう自分の仲間のほうを。しかしすぐに目を前に戻した。
(虫になれたらどんなに気楽か、なんて、そう思った時もあった。さっきまではそうだった。でも、今は違う)
自分は幸せだ。エスカルゴンはそう思った。自分には居場所がある。この城、陛下の隣という居場所が。こんな自分でも、必要としてくれる人がいる。そんな人々を身捨ててまで、紫陽花の葉の上で暮らしたいだなんて――もし虫になれるとしても、本当に願いが叶うとしても、そんな馬鹿なことは絶対にしないだろう。
城へと戻る二人の足音を、雨の音が優しく包み、溶かしていった。
〜おしまい〜