8.電話
蒼太は寝ていないといけないので、昼食は私が作った。蒼太の体調も安定していて、少しふらつく以外には特に困ることは無かった。そうして夕方になった。そろそろ夕食を作ろうとキッチンに向かおうとしたところ、電話が鳴った。誰からだろう、と固定電話に駆け寄り、受話器を取った。
「もしもし?」
「………っごめんあそばせ。間違えましたわ。」
聞き覚えのある、可憐な少女の声がした直後、電話は切れてしまった。
「…今の……。」
どう考えても花の少女の声だった。本当に間違いだったのか。やっぱり蒼太との繋がりがあったのではないか…。嫌な予感がして、急いで蒼太のいる寝室に向かった。
ドアを開けると、蒼太が寝息を立てて無防備に眠っている姿が目に入った。
「…蒼太、ねえ起きて、蒼太…!違うよね?違うんだよね…??…早く起きて、私を安心させてよ!!」
少し荒っぽく蒼太の体を揺さぶった。
「んんん…なにぃ…?夕食…?」
「違う!!」
私はそう言い放ち、蒼太の目を睨んだ。
「……どうしたの、なんでそんな目で…見るの…?」
「正直に答えてよ…!あの子とはどんな関係なの!?」
「あのこ…?……す…朝言ってた、花の帽子の人のこと…?」
「『す』…?」
私が気になった点を指摘すると、蒼太はあからさまにしまった、という顔をした。
「…えっと、…名前だよ。鈴って言うんだよ、あの人の名前…。」
「そうなの」
私は頷いて次を話すように促した。蒼太は、観念した、と言う顔で話し始めた。
「……鈴さんは、アドバイザー…みたいな感じで、よく俺のお菓子に、的確なアドバイスをしてくれる…。俺、おかげでかなりパティシエとして成長できたんだ…。いや、あの…やましい関係に持ち込んだことは一切ない。これだけは本当なんだ。信じてくれないか。」
「…うん。信じるよ。でも、おかしいなあ。さっき、鈴ちゃんから電話がかかってきたんだよ。電話取ったのが私だとわかった瞬間、切っちゃったけど。アドバイスって、電話で受けてるの?だったら私に伝えてくれればよくない?ねえ、なんでだと思う?」
強がってみたけれど、いつ泣き出してもおかしくない精神状態で、かなり、限界だった。蒼太を疑いたくはないけれど、鈴から電話がかかってきた、という事実が重くのしかかっていて、どうしようもなかった。
「……そうだなぁ。なんでだろう…。本当に間違えたんじゃない?友達とかとさあ…。鈴さんにも友達ぐらいいるだろ。多分。」
「……そっかあ…。」
申し訳ないけれど、そんな確証のない御託を並べられても信用には値しない。蒼太にこのような冷たい感情を持ったのは、初めてだった。初めてだからこそ、どうしたらいいかわからなかった。私は黙っていることにした。
「…ごめん。さっきまでの話、全部嘘だ。事実としては、普通に浮気だよ。……あーあ。悪いことするとバレるもんなんだね。…よし、別れよう、愛依。ばいばーい。」
蒼太は軽い調子で一気にそう言い放った。寝室が暗いので、表情はあまりわからない。
「…は?」
「最低だろ、俺。だから別れよう。もうこんな奴信用しちゃダメだ。これから永遠にさよなら。…それが普通だろ。」
永遠にさよなら。蒼太は淡々とその言葉を口にした。以前の私なら、聞いたその場で泣き崩れていただろうけど、今はなんだか全てがどうでも良かった。こころが冷め切っているみたいだ。
「…わかった。でもさ、最後に一つだけ教えて。あの人のどこが好きなの?」
「………顔。」
蒼太の声は、少しだけ震えているように聞こえた。今更罪悪感でも感じてるのだろうか。しかしそれもどうでも良かった。
「そう。あの人、顔だけはいいもんね。顔だけしかいい所ないもの。そうだよね。」
「……出てくよ。家あげるから…。」
のそりと布団から出ながら、蒼太が言った。
「いらない。あなたなんかが生活した家なんて。」
「…はは、そうだよなぁ、そう言うと思った。」
「何が面白いの」
「何も面白くないよ」
荷物をまとめ、感覚のない足で玄関まで歩いた。蒼太はあつかましくも、私を見送るつもりのようで、玄関まで付いてきた。
「…私が出てくから。それで万事解決なんでしょ?ああ、明日は役所にいかないと。私が蒼太の浮気の件喋ったら、時雨さんになんて顔されるかなあ。」
「…それはやめてよ。」
「指図しないで。言うも言わぬも私次第だから。あなたは鈴ちゃんと…『美人』の鈴ちゃんと、よろしくやってればいいじゃん。それが幸せなんでしょ?私との幸せを上回るくらい、幸せなんでしょう?正直、信じらんない。あなたはもっと賢い人だと思ってた…こんなことしない人だと思ってた!あなたって…、お前は…っ本っ当に馬鹿!!馬鹿っ…!ばか!!こんなにっ…愛してたのに…!!文字通り命懸けてさ…っ!!最ッ低だよ!嘘つきっ…!!裏切り者…っ…!!!死ねばいいのに…!!!」
今まで抑えていた真っ黒い憎しみが泉のように湧き出て、溢れた。さっきまでの氷のような心は打って変わって、どす黒い感情に燃えていた。
「……そうだな。」
蒼太の目は潤んでいて、声は震えていた。なんでお前が泣きそうになってるんだよ。泣きたいのはこっちだよ、と言いたい所だったが、ぐっと我慢した。体力の無駄だ。
「…はぁ…はぁ…、じゃあ…、さよなら。」
「…愛依」
「…は?何?名前呼ばないでよ…!」
「殴っていいよ。俺のこと。」
「いやだ。触れたくない。早くこの場から消えたい。」
「…そっか。じゃあいい。」
「…じゃあ、永遠にさよなら…!」
そう言った後、私は息急き切って役所まで走った。まるで、尻尾巻いて逃げるように。さっき吐いたドス黒いセリフも、ただの負け犬の遠吠えに過ぎないことぐらい、わかっていた。
役所に時雨さんの姿は見えなかったけど、とりあえず受付の人に用件を伝えると、家を貰えた。こんな簡単に、しかも1日で貰えるものなんだ、と少し感心しながら、貰ったばかりの鍵と地図を両手に持った。地図には私の家の場所が記されている。
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家に着き、中に入ると、荷物を適当なところに置いた後、場違いに綺麗な新品のトイレで思い切り吐いた。胸の中のモヤモヤも、彼との思い出ごと水に流して捨ててしまおう、という算段だ。けれど、そう簡単に消えてくれるものでは無かった。私が彼に片想いしていた年月は、15歳から21歳までの6年間。蒼太と付き合っていた年月は2年間…。この短いようで長い年月の思い出は、呪いのように心にへばりついていた。そもそも私の記憶は蒼太に関するものしかないのだ。その記憶を消し去って仕舞えば、私の記憶は全てなくなることになる。今の段階で彼を忘れることは不可能なのだ。
もう、いっそのこと死んでしまおうか。そんな言葉が脳裏によぎったところで、ようやくここが死後の世界だということを思い出した。この世界でも死ねるのか?死の次の死って、何?もし死ねなかったとしたら、私は死者としてここに存在し続けるしかないの?
一度考え出すと、疑問は溢れんばかりに浮かんだ。今度、時雨さんにでも聞いてみようか。多分、知ってるでしょ。
しばらくして、どっと疲れが押し寄せてきた。今日は早く寝よう。
続く