号笑 第八章 「夏野陽毬の別れ」
じりじりと照りつける日差し。通学路のアスファルトがぐらぐらと揺れている。蝉は、どこにいるかはわからないけど、声だけは圧倒的な存在感を放っている。まだ、夏は終わっていない。
「ひ〜ま〜りぃ〜っ…あっついよぉ〜…溶けちゃうぅ…」
と言いながら私にくっつくという矛盾行為をする日奈子。
「だったらくっつかないでよ〜…私も暑いんだから…」
と、日奈子の体を自分から剥がしにかかる。
「あ〜っやめて〜…暑いけどくっつきたいの〜…」
「意味わかんないよっ」
「私もわかんない…脳みそ茹で上がってるよ…」
「もう…教室行こ!早く!」
私たちは少し無理をして走った。走って、走って、走り切った後に入るクーラーガンガンの教室は、やはり最高だった…!
「ひゃ〜っ涼しいぃ〜っ」
「気持ちいい〜…」
2人で早起きした甲斐あって、2人だけの教室はとても快適だ。
「ああ〜っ…私、クーラーと結婚する…」
と、日奈子が言った。
「ホントに脳みそ茹だってない?」
「茹だってないよ。…そうだ、ひまりは、クーラーと猫井だったらどっち選ぶ?」
「…ええ…っクーラーとの二択だったら流石に猫井くん…だけど。普通に…無機物はやだよ。」
「まぁ〜そっか。そりゃあそうだよね。」
そう言った直後に、日奈子は私の顔をじっと眺めだした。
「何?なんかついてる?」
不思議に思ってそう聞くと、
「いや、なんか…顔がさ…、似てきてない?」
「誰と?」
「…猫井と。いや、前からそんな顔だったっけ?」
「え…?前からこうだし、似てないと思うけど。」
「いや、確かに鼻とか口はあんまりだけど、目がさあ、めちゃくちゃ似てるよ〜。ほら、なんだっけ、黒目がさ…あの、理科で習った…」
日奈子は目をぎゅっと閉じて、少し考える仕草をしたあと、再び口を開いた。
「…黒曜石!!…みたいな感じ?」
「えっ…」
黒曜石のような瞳。私も以前、猫井くんに同じような感想を抱いたことがあることを思い出して、少し驚いた。
「猫井よりかは垂れ目だけど…、黒目だけはすっごい似てる。」
「そ…そうなの…?」
普段、自分では気にしたことなかったけど、そうなのだろうか。あの日の猫井くんの瞳を思い出しながら、そう思った。
「…でも、猫井よりはなんか、人間味のある感じ。ホラ、猫井、たま〜に人形みたいなときあるでしょ?」
「…うん。放課後に呼び出された時も、人形みたいにただただ椅子に座ってぼーっとどっか見てた…。」
「でしょ。んでも、私は、ひまりの目の方が好きだけどね…!」
そう言って日奈子はウインクした。
「…あ…えと、ありがと…?」
あまり目を褒められた経験がないので、反応に困ってしまった。
日奈子は、私の目が好きだと言ってくれたけど、私は猫井くんの目の方が好きだった。あの日、夕日に照らされた猫井くんの黒曜石は、かすかに夕焼け色を反射した。そして、宝石のような輝きを放って、それでいて、目の中心には吸い込まれるような黒があった。ただただ、美しく、神秘的だった。感情が介入しないからこその、美しさだった。
「…私、今日またお見舞いに行くよ。日奈子も行く?」
「行く!…と言いたいトコなんだけど…ごめん!ちょ〜っと習い事が…」
「あ…そっか、わかった!」
「…というか、車、ひまりのお母さん出してくれる感じなの?」
「…うん。昨日話したんだけどね、お母さん、どうも勘違いしてるみたいで。私が猫井くんのこと好きなんだって思いこんじゃってさ…。でも、『娘の恋愛を応援したいから』って言って、車出してくれるのは嬉しいけど。」
「うっわ〜!良いおかーさんじゃん!」
「えへへ…」
猫井くんに会いに行きたい理由は、猫井くんが好きだからってだけじゃない。もう一度、あの瞳を見てみたいのだ。前行った時は、瞳の奥に憎しみとか絶望とかが混じってるみたいで、少し濁っていたから。今日は、澄んでいるといいな…。
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「お母さん、病院に連れて行ったげるけど、病室には入らないよ」
車の中で、母が言った。
「なんで?」
「だって、お母さんが隣にいたら告白できないでしょうよ」
「えっ…いや…告白しに行くわけじゃ…」
「そういうわけじゃないの?」
と言って、母が笑った。
「いや…えと…」
私がどう答えたらいいかわからず、しどろもどろしていると、
「あははっ、ま〜、普通告白するなら怪我治ってからだよねぇ〜。」
と、また呑気に笑った。
「あ、ほら、ついたよ!猫井病院…院長さんが順くんのおじいちゃんなんだってね!すごいねぇ〜…!さぞ金持ちなんだろうね!あんた、結婚するなら金持ちにしときなよ。子供産むんだったら、なおさらね!あははっ」
母は、私と違って陽気でおしゃべりだ。母がひたすら喋った後に漏らす笑い声が、私は少し好き。
そして、母は猫井くんのことを『順くん』と下の名前で呼ぶ。私も下の名前で呼んでみたいけど、まだ恥ずかしいから、平気で呼べる母がなんだか羨ましい。
「結婚なんかまだ早いよ…」
「ふふ、猫井くんと結婚するんでしょ?」
「えっ…やっ、しないし!!」
「あら、残念。でも、そのヒマワリあげるんでしょ?ちょっとは好きなんじゃないの?」
「…別に。手ぶらじゃ悪いかなって…思っただけ。」
「陽毬はホント、ヒマワリが好きだわね〜。ちっちゃい頃から…ねぇ?あははっ」
そう言って母は笑った。
病院に着き、母と別れた。母は近くのスーパーで買い物をして時間を潰すらしい。
例によって看護師さんに案内されたのは、病棟114号室。
「失礼しまー…す」
ゆっくりドアを開けると、やはり猫井くんがいた。
「…夏野…!?また、来てくれたんだ…」
少し驚いた様子でこちらを見た猫井くんは、なぜかマスクを付けていた。
「…猫井くん、なんでマスク…?」
すると猫井くんは少しだけ目を逸らして言った。
「…ああ、なんか、鎮痛剤の副作用で、たまに咳が止まらなくなることがあるから…今は大丈夫だけど。」
マスクのせいで、声がこもっている。
「そうなんだ…大変だね…。」
私はそう言いながら、ベッドの上に手を置いて、隣にある椅子に腰掛けた。
猫井くんは私の目をまっすぐに見つめた。不意に、ドキッとしてしまった。
「…夏野…さん。」
「…あっ…はい…?」
私が返事をするや否や、猫井くんは私の手に自分の手を重ねた。
「…ちょっと、言わなきゃいけないことがあって…」
猫井くんは相変わらずこちらの目を見つめ続けている。マスクのせいで、いつもよりさらに感情を読むのが難しくなっている。
一方で、もしかして私はこれから告白されるんじゃないか、という思いが稲妻のように頭を駆け巡っていた。
恋愛に疎そうな彼のことだ。普通、病院で、しかも自分が入院している時に告白するのはおかしいということすら、分かっていないかもしれない。
だから、今から私が告白される可能性は十分にある…。多分。
と、期待に胸を膨らませていた。が、彼の一言で、一瞬で萎んでしまった。
猫井くんは、まっすぐに、笑えるくらい本当にまっすぐに、私の目を見つめて、言った。
「今後は、俺と関わらないでほしい。」
「…え?なんで?」
「このままだと、夏野に危害が及ぶかもしれない。」
「危害…?何の?誰が…?」
「…うん。ごめん。わからないことだらけだよな。」
猫井くんは、相変わらず綺麗な目でこちらを見ていた。私に父親はいないけれど、父親がいたらこんな目をするのだろうか。ただただ、優しい目だった。
「…じゃあ、少しだけ説明する。俺を刺したのは、通り魔じゃなくて俺の母親なんだ」
「…は?えっ?ちょっと待ってよ…。」
いきなり何を言っているんだろう。けれど、彼はこんな悪趣味な嘘をつくような人には見えなかった。
「本当だよ。警察にもまだ言ってないけど…、言うつもりもないし。」
「えっ、言った方がいいと思うんだけど…」
「そしたら俺と弟は施設に入ることになるんだ。ついでに親が犯罪者というレッテルを貼り付けられることになる。それと…俺は良くても、弟はまだ…五歳だから…。母親から引き離すのは、ちょっと…かわいそうだろ。」
それを聞いて、ああ、やっぱりこの人はすごく優しい人なんだと思った。でも、あんな母まで庇わなくても…。
「…でも、実の息子を刺すような母親でしょ…?」
「大丈夫。母は、弟には絶対何もしない。溺愛してるし。」
でも俺のことは…、そう言いかけて、猫井くんは口を閉じた。そして、自分の手に視線を落として、もう一度話し始めた。
「…えぇと…話が逸れたけど。まぁ、だから…今、俺の母は極めて危ない状態だ。一触即発…っていうか。だから、もしかしたら夏野も危険な目に遭うかもしれない。」
私の手に重ねられた猫井くんの手が小刻みに震えているのが感じられた。
「…猫井くんは、なんで刺されちゃったの?なんで猫井くんのお母さんはそんなことしたの?」
「…」
猫井くんは、黙ってこちらを見た。そして口を開いた。
「…俺の性質のせいかな。」
「…性質…?」
「俺、悲しい時…涙の代わりに、笑いが出る…、夏野と、同じ性質を持ってる。」
「…!!…あの…だから、それ隠すためにいつも無表情なの?」
みんなと同じように泣けない辛さはわかっている、はずだった。しかし、彼の方がずっと苦しんでいたということを、この後に知ることになる。
「…うん。家で笑ったら殴られるから。小さい頃から家では感情出さないようにしてたんだけど…いつのまにか家以外でもこうなってた。」
でも頑張ったらこれくらいの顔はできるよ、と彼はほんの少し、微笑んだ。でも、その顔を見ていると、なんだか苦しかった。かわいそうだ。
「なんでそんなことくらいで殴るの…?信じらんない…。」
猫井くんの母への怒りをこめて、そう呟いた。
「…俺の元父親のことを…母にとっては元夫だけど…思い出すからだと思う。父親の名前は陽太って言うんだけど…そいつもも同じ性質を持ってた。つまり、俺のコレは、遺伝なんだよな。」
猫井くんは、そこまで話して、また自分の手に目線を落とした。そして話を続けた。
「…その陽太ってのが浮気はするわ暴力はするわの信じられないクズだったらしくて。…だから、俺が泣いたり笑ったりするたびに陽太の面影を見つけてしまって…、パニックになるらしい。それで結果的に殴るってわけ…らしい。」
猫井くんは、どんなことでもまるで他人事のように淡々と話す。私には、どうしてそんなに落ち着いてられるのか、わからなかった。とにかく、黙って話を聞くことだけに徹した。
「…で、今回は色々タイミングが悪かった…。俺が…世話してる、ユキっていう猫がいるんだけど…そいつがちょっと体調崩しちゃって。まだ、仔猫だったから、死んだらどうしようって不安になって…うっすら笑いながら、家帰って母に急いで相談した。その時に母は料理中で、手には包丁があって…その…まぁ、拳の代わりにそいつが俺の腹に刺さった、ってこと。」
…想像しただけでも痛そうだった。猫井くんは仔猫を助けようとしていただけだったのに…。自分の性質を家族に受け入れてもらえないだけで、こんなに苦しむことになるだなんて。受け入れてもらえている私の方が、ずっとずっと幸福だったなんて。
「猫井くん、こんなに優しいのに…なんで酷い目に遭わなきゃいけないの…。」
猫井くんは、答える代わりにゆっくりと私の方を見て、ぎこちなく笑った。目が潤んでいるように見えた。
すごくかわいそうで、でも強かで、優しい人。私は、一度この人に助けられた。その恩もあるし、最近、もしかしたら、彼のことが好きなんじゃないかなんて思い始めていた。それなのに、彼から離れないといけないなんて。
私は、信じられない思いで、彼を見つめる。どうか、嘘であってくれ。悪夢なら覚めて。おねがい。
しかし、天にいる誰かに祈ろうが、急いで悪夢から醒めようともがこうが、ここは紛れもない現実なのであった。せっかく最近、自分の思いに気づき始めたばかりなのに。こんなところで、彼とはおしまいなのかな。強い絶望感だけが、残酷にも胸に沈み続けている。今、この瞬間も。
私は、この現実を受け止めるしか、ないのだろうか。
私に何かできることは無いのかな。けれど猫井くんの家庭は思ったよりも複雑で、私が何をしたって余計なことになる気がする。それなら、彼と一緒にいられる今を大事にしないと。そこまで考えて、やっとの思いで口を開いた。
「…猫井…順くん。最後に伝えたいことが…あるの。」
「何?」
彼は不思議そうに首を少しだけ傾げた。
「…私、順くんのこと、好き。」
きっぱりと言い切った。
順は、目を見開いて、真偽を確かめるように、私の目を見つめた。そして、言った。
「…夏野…。嬉しいけど…俺…恋愛禁止なんだ…。」
思いもよらない発言だった。
「え゛…」
「ほら…俺にはあのクズ親父の血が流れてるからって…母から恋愛禁止令を出されてる…。」
「いやっ、血とか関係ないでしょ…。猫井くんが女の子泣かせるわけないじゃんね…!…というか!私、自分の思い伝えたかっただけだから…!別に付き合えなくてもいい!」
血なんかいう曖昧な理由で順の人生を縛り付けるなんて、許せなかった。そして、順と付き合えないのがすごく悲しかった。自分と同じような性質を持ってる人なんてもう二度と会えない気がするから。順となら、分かり合える気がしていたのに。
「あ…そうなんだ…ところで、さっきまで俺のこと順くんって呼んでくれてたのに…。」
「…ちょっと照れくさくなっただけだから!!」
指摘されて恥ずかしくて、下を向いたけど、すぐに順の顔に向き直った。すると順が口を開いた。
「…あのさ」
順の目から、涙が落ちるのが見えた。
「…陽毬って呼んでもいいかな?」
「…いいよ!もちろん!」
本当は顔から火が出そうだったけど。
「…ありがとう、陽毬。」
順も私も、嬉しくて泣いていた。嬉し泣きだけは、他の人と同じように泣ける。2人が会える、最後の日。もうしばらくこのままでいたいと思った。
今日の黒曜石は涙でぼやけて、病院の無機質な光に照らされて、喜びに輝いていた。その姿は、いつまでも私の目に焼き付いていた。
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帰りたくなかったけど、そんな気持ちを心の奥にしまい込んで、車に乗った。車の中で、母に今日、順から聞いた話をした。すると、
「…それ、そのクソ親父ってやつ…陽太って名前じゃなかった?」
と、母が言った。
「…そうだった気がする。」
と曖昧な返事をすると、
「…うん、やってることも陽太とおんなじだ。陽太に違いないよ…。」
「…どういうこと?なんでお母さんがそのこと知ってるの?」
「…今言うべきことじゃないかもしれないけど…まぁ、独り言だと思って聞いてちょうだい。」
「…?うん…。」
つまらない話かなと思ったので、車窓から遠くの景色を眺めた。様々な色に光るビルが遠くなっていく。
「そいつのフルネーム、夏野陽太って言うんだよ。お母さんの…元結婚相手。」
「…は?えっ?」
独り言のレベルじゃない。急にハードな話を始めた母を、信じられないままぼんやりと見つめた。
「でも愛人がいたことが後でわかってね。多分その愛人が順くんのお母さんだね。子供がいたみたいだったから。私と離婚した後はその人と結婚したみたい。…でも、長続きしなかったんだね…。」
「え?ねぇ、待って…!?それって…それってつまり、私と順…猫井くんのお父さん、同じ人ってことなの…!?」
「…そう言うことになるね。じゃあ、陽毬は順くんと異母兄弟だね…。」
「…え…えぇ…え…」
混乱して、意味を持たない音しか声に出せなかった。
まさか、まさか順くんと血が繋がっていたなんて…。朝、日奈子に言われた、『目が似てる』という言葉を思い出した。
「そういえば、順くんには弟さんがいるって話だったよね?…でも、年が離れすぎてたから…父親が違うんだろうね。だから弟さんだけ溺愛してるのかも…。」
母は、それだけ言って、話さなくなった。しばらくしてから、思いついた疑問を投げかけてみた。
「…お母さん、なんで離婚したのに苗字変わってないの?」
すると母が言った。
「色々手続きが面倒なのよ。子供がいるとね…。それに、陽毬って名前には、夏野が一番似合うでしょ?だからいいの。」
「…そういうもんなの…?」
私は呆れて返事をした。
夕立が降って、車窓に水玉模様を作っていた。
続く