【黒蝶】の過去編
闇に見紛うような場所で、ひっそりと嗚咽を漏らし、それを噛み締めて隠すような音が静かに響いた。
真っ暗な中に浮かび上がる白い姿。
赤く染まる周囲とむせ返る血の匂いに扉を開けた存在は一瞬ひるんだ。
「…白蝶?」
その男が小さく声をかけると、縮こまっていたその白い姿がはねた。
振り返る白い姿――白蝶は、泣きながら壊れるかと思うほどに揺らぐ瞳で男を瞳にうつす。
血塗れた白蝶が、顔を歪めた。
白蝶「黒蝶…お兄様…!」
白蝶の前には母が見ることすら憚られるような惨状で壁に貼り付けられており、白蝶の手にはこびりついた血。
悟ったのか、男――黒蝶の表情は驚愕に染まる。
その表情の変化に怯えるように白蝶が震え、ゆらりと後ずさった。
黒蝶「白蝶…?」
白蝶「…っ!!ごめ…な…、ごめんなさ…っ」
ゆっくり、黒蝶の視線が部屋を見渡した。
暗闇に慣れた目はその部屋の惨状をすべて見通し、最後に再び怯えて震える白蝶にもどる。
俯いていてその表情が伺えない。
黒蝶が一歩、部屋の中に足を踏み入れた瞬間、白蝶の様子が変わった。
しきりに「ごめんなさい」と繰り返していた声が、怯えた震えが、止まった。
顔をあげる動きに、黒蝶が引きつった表情を浮かべる。
白蝶「…嘘つき」
黒蝶「…!!」
たった一言。
たった一言に、戦慄を覚えるほどの狂気を感じ、黒蝶は後ずさろうとした。
白蝶の表情は無、何もない。
闇に染まったような、真っ暗な瞳が黒蝶を捉える。
刹那、遠かったはずの白蝶は黒蝶のすぐそばにいて、逃げる間もなく黒蝶は吹き飛んだ。
廊下の壁に叩きつけられた黒蝶の頬には切り傷、叩きつけられた拍子に頭を強打したのか、その目はどこか霞んでいて。
何が起きたかなんて疑うほうがおかしいだろう。
黒蝶の霞む視界の先に見える、日本刀を握りゆらりと立つ白蝶の姿。
白蝶「お母様もお父様も嘘つきだわ。…お兄様だって、嘘つきだわ」
感情の宿っていないような声にゾッとする。
白蝶の視線も何も見ていないように感情がなく、表情すら無い。
黒蝶は霞み揺れる視界で、それでも真っ直ぐに白蝶を見た。
…何かを言おうとしたか、口を開いたが言葉はもれず、かわりに息をひくりと飲んだ。
手を貫く白蝶の刀。
白蝶「あはっ…馬鹿みたい、馬鹿みたい…信じたなんて…私を捨てようとしたのに、嘘つき…嘘つき嘘つき嘘つきぃ!!!」
黒蝶「ぐぅ…っ」
貫いた刀が強く入れられた力に震え、傷を広げる。
無意識に動いた自由な方の手は、小さなナイフをいつの間にか持っていて。
それは刀を強く持つ白蝶の手を切り裂いた。
白蝶「――っ!」
黒蝶「あぐぅ…」
その痛みにか、白蝶は声無く叫び刀を引き抜いた。
引き抜かれた勢いで痛みを感じ微かにうめいた黒蝶は、何もされていない手を動かし――白蝶の頬に添えた。
びくりと震えた白蝶に、驚く程に優しい微笑みを向ける。
黒蝶「ごめんな…?」
白蝶「!?」
見開かれた目をまっすぐに見て、優しい微笑みのまま添えた手でゆっくりと頬を撫ぜる。
優しいのに悲しそうな、そんな微笑み。
カタカタと震える白蝶の頬撫ぜながら、微笑みが悲しく歪んだ。
黒蝶「ごめんな…、気付けなくて。いや、気付かないふりして…辛かったよな、寂しかったよな、悲しかったよな…ごめん…っ」
白蝶「何…を」
黒蝶「気付いてたのに、お前が必死になってすがりついてたことにも、夜も闇も孤独も怖いのに一人で泣いて耐えてたことも、気付いてたのに…ごめん…っ!お前が壊れる前に、俺がちゃんとしてれば…っ!」
白蝶「何言ってるの…?わけわかんな…、…何言って…っ!」
白蝶の震えが大きくなる。
そんな白蝶を引き寄せて、頬を撫ぜていた手でそっと頭を撫ぜた。
自分のしている黒いマフラーを外しながら、ゆっくりと。
黒蝶「…怖かったよな。裏切られたって、嘘つかれたって絶望したんだよな…。泣いていいよ。一人で泣かなくていい、いま、俺がいてやるから…」
白蝶「…ぁ…に、さ…」
じわりとにじむ涙に、黒蝶は微かに苦笑した。
後悔するように、そっと先ほど切り裂いた白蝶の手に触れる。
そして外したマフラーでそっとその傷を止血した。
何気なくそちらに目を向けた白蝶は、そんな黒蝶の手の傷を見て、息を飲んだ。
白蝶「あ、お兄様…っ!血が…っ、あ、私っ…!」
正気に戻ったのか、黒蝶の手が血に濡れているのが自分のせいだと気づいたのだろう、半狂乱に陥りかけた白蝶に微笑んでみせる。
黒蝶「大丈夫だから。このくらい平気だよ、ね?」
白蝶「でもっ、私が…!」
唐突だった。
白蝶の言葉が途切れ静寂が訪れる。
数秒か、数分か、いや、実際は一瞬だったかもしれない。
床にへたりこむ様に座り込んだ白蝶の前には、たったいま白蝶を突き飛ばした黒蝶がいる。
変わらず、優しい微笑みのまま、いつの間にか立っていた。
黒蝶「駄目だよ白蝶、心を鎮めるんだよ。俺なら平気だから――逃げろ」
ゾッとするような優しい微笑みで、黒蝶は静かにいった。
青い瞳が異常な煌きを持っている。
座り込んだ白蝶がハッとしたように黒蝶を見た。
白蝶「お兄様…っ」
黒蝶「逃げろ…全部俺に任せていい、逃げろ」
青い瞳と目があった瞬間、声無く黒蝶の口が動いた。
――早く
弾かれた様に白蝶は走り出していた。
それを静かに見送ると、黒蝶の体が傾き倒れた。
もう、白蝶の気配は遠い。
一人で天井を仰いで、最後に安堵したような笑みを浮かべ、何か言いかけた。
ついに、鏡が闇に包まれる。
あの二人、見た目が似てると思ったら兄弟だったのか、なんてどうでもいいことを考える。
どうでもいいことを考えていないと、変なことを考えそうで、風音は頭をふった。
風音「…狂気を受け継ぐ家系ってとこ…?」
あぁ嫌だ、なんてつぶやく。
風音は白蝶たちにではなくそう思った自分に嫌悪を感じた。
――早く書いて忘れてしまおう
そこからはもう、何も言わない。
部屋には原稿用紙にペンを走らす音だけが寂しく重く響いた。
〜〜三つ目の記録は、片割れの兄の過去の一部だった〜〜