3.マイノさん
蒼太の後ろに続いて、子供達と一緒にしばらく赤い森の中を歩いていると、木々の隙間から一軒のメルヘンチックな建物が見えてきた。森の赤い葉っぱと同化しているが、この店の屋根も赤色だ。
「あれがお菓子屋さん?」
私が尋ねると、蒼太は振り返らずに
「そうだよ」
と言った。
この店を見ていると、なぜか童話の『ヘンゼルとグレーテル』にでてくる、お菓子でできた魔女の家を思い出した。店に入ると、
「魔女…?」
と、つい口に出してしまうような、小太りの初老の婦人が窓際の椅子に座って、じっとりとした視線をこちらに送っていた。
「ぁあ…?だぁれが魔女だね…、っと、おお蒼太、帰ったんね。おかえりぃ…」
天然パーマなのだろうか。短い巻き髪の老婦人は、厚ぼったい手をひらひらと振った。
「ただいま戻りました、舞野さん。」
蒼太は笑顔で老婦人に応えた。この人は一体…?
「え?え?だぁれ?この人…?」
と、尋ねてみた。
「誰って…この店のオーナーですよ。まさか、僕だけでこの店やってると思ってたんですか?」
「いや…その…そうだよねえ〜!あは、うっかりしてて…。」
よく考えず軽率に質問をしたことを後悔した。
「マイノおばちゃん!!」「おばちゃ〜ん!」
そう言って子供達が老婦人に駆け寄った。この老婦人は、どうやら「マイノ」という名前のようだ。
「おおちびっこ、よく来たねえ〜…!」
孫を撫でる祖母を見ている気分だった。
「じゃあ僕は仕事に戻るんで、どこでも好きなところ座って待っててくださいね。注文は舞野さんに言ってくれればいいです。メニューは机に…。あ、任せていいですよね?舞野さん。」
「ああ?いいよ……なぁんだい、この娘、お客様だったのかい…。あたしゃてっきりあんたが彼女でも連れてきたんかと勘違いしとったよ…。」
「はは、まさか〜…」
と、蒼太が笑いながら厨房と思わしき方に歩いていくのを見ながら、『彼女なんですが?』と言いたい気持ちを必死で抑えていた。蒼太は私のことをなぜか忘れてしまっている。今そんな馬鹿なことを言えば混乱を招くだけだからだ。結果、私は無言で手近な席に座ることにした。メニューになんとなく目を通す。蒼太に誘われたから来たけれど、正直あんまりお菓子を食べたい気分ではなかった。でも、蒼太が厨房に向かったということは、蒼太お手製のお菓子が食べられるチャンスということ。しかし、高まる気持ちとは裏腹に、一向に食欲は出ず、メニューを見ても目が滑るだけで全く注文が決まらない。自分の少食な胃袋を恨んだ。
「ん?なんだい、注文決まったかい?」
床がきしむ音が聞こえて、マイノさんが近寄ってくる気配がした。
「ああ、…その、まだ決まってなくて…お、おすすめっ…とか、ありますかっ…?」
マイノさんは立ち上がると私よりもずっと背が高く、驚いて声が上擦ってしまった。
「おすすめねぇ…。ああ、あいつのプリンはうまいよ。ま、何作ってもうまいけどね。あいつは天性の才を持ってる。悲しいよ、ほんと…。あんな若いのにねぇ…。」
何が悲しいのかよくわからなかったが、とりあえずおすすめを聞けたので、
「じゃあ、プリンにします。」
と言っておいた。
「あいよ〜…。」
と、マイノさんはのしのしと厨房の方に歩いていって、
「おうい、プリンだってさぁ〜」
と注文を伝えた。
「はいっ!」
と、蒼太の元気な返事が聞こえたことを確認すると、マイノさんはまたのしのしと床を軋ませながら窓際の椅子に戻った。それを見て、その椅子は本来客のための席なのだろうと気付いたが、今は客が私と子供達だけなので、特に問題はなかった。…というか、オーナーなのになんで注文を伝えるだけの仕事なの…?蒼太の方がずっと働いているように見える。
「ちびっこちゃんたちはどうしようね?」
背後の席から声がした。マイノさんが子供たちに話しかけているようだ。
「おれクッキーがいい。」
と、少年。
「わたしはね、えっとね…、これ!これなんてよむのこれ」
と女の子がメニューを指差しながら言った。
「ショートケーキだね。それでいいかい?」
「うん。」
マイノさんがまたのしのしと床を軋ませ、注文を伝えているのを見ながら、ぼうっと考えていた。
なんであの子たちには親が付いてないんだろう。あのときのマイノさんの「悲しいよ、ほんと…。あんな若いのにねぇ…。」という言葉の意味は、一体なんなんだろう。たくさんの疑問が頭の中に浮かんで、わからないまま、シャボン玉みたいに割れて消える。
…どうして、蒼太は私を忘れてしまったんだろう。あんなに尽くしたのに。あなたのために人生を捧げたのに。周りから何を言われようと、死んでまであなただけを追いかけ続けてきたのに。どうして?
この疑問だけは、重く心にのしかかった。息が詰まって、苦しい。どうして?どうして?どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして…?
あなたがかわいいと言ってくれた日から、髪型一回も変えてないんだよ。今だって、下めのツインテールのまま。今も昔も、変わってないよ。変わらずあなたが死ぬほど好きだよ。
それなのに。あなたは。私を忘れて。まるで他人みたいに、振る舞って。
「…あんた、どうしたんだい…!?」
横から、マイノさんの心配そうな声が聞こえた。そして初めて、自分の目からこぼれ落ちる液体の存在に気がついた。肩が震えて、涙が止まらない。
「…っ…そうたぁっ…!」
つい、名前を呼んでいた。私のことを思い出してほしい、一心で。
そしたらマイノさんが、のしのしと厨房の方に歩いていく音が聞こえて、
「蒼太!あんた、女を泣かしてんじゃないよっ!!」
という声と、バンッという、何かを叩いたような変な音が聞こえた。
「いっ…たあ…〜っ…!急に…何するんですかぁ…!?なんの話ですか…!!」
蒼太の声。もしかして、叩かれたのは蒼太なのだろうか。いや、もしかしなくてもそうか。痛そうな鈍い音がしていたけど、大丈夫だろうか?それに、マイノさんが何か重大な誤解をしてしまっているような。
「いぃぃいから来いっこのアホタレっ!」
「ちょっとお…どういうつも……」
目が合った。マイノさんに引きずられるようにして厨房から出てきた蒼太と。その瞬間、蒼太は予想外なものが見えてしまった、という顔でしばらく私を見つめていた。
「…あ、あの…大丈夫……、じゃないですよね…。…その…、どうしました?」
涙で喉が詰まって、何も返事ができない。もどかしさでさらに呼吸が苦しくなった。
「どうしましたじゃないよっ!知ってんじゃないの?なんでこの子がこんなんなったか!!可哀想に…!え!?」
「…えぇ〜…そんなこと言われても…知りませんよ…。…というかこの人とは今日が初対面なんですってば…。」
「…あんたの言葉は信用なんないね。話してみなよ、お嬢ちゃん?うちのバカが何した?ん?」
「…っ…。」
都合が悪いことに、吐息としゃっくりしか出ない。深呼吸をしてなんとか涙を収めようとするが、逆に、早く落ち着かないとダメだ、と焦ってしまって、うまくいかなかった。ごめん、蒼太…。今の私では誤解が解けない。
すると、子供達がそばにやってきた。
「パティさん、おばちゃん、どうしたの?けんかしてるの?」
「ああ、ちょっとね…。ごめんね、あんたたちはお外の席におゆき。大事な話をしてるんだ。」
マイノさんが子供達に、さっきとは打って変わった優しい口調で諭した。
「うん…。でも、ケンカはダメだよ?」
「たたいちゃ、ダメなんだよ?」
外に出て行きながら、少年と女の子が口々に言った。それに混じって蒼太も、
「そーですよ舞野さん。人の頭をフライパンで殴るなんて言語道断…」
と言いかけたが、
「あんたは喋んじゃないよっ」
マイノさんに遮られた。
「大丈夫かい?落ち着いてきたかい?…蒼太、お茶持ってきな、今すぐ!!」
「…えぇ…?…わかりましたよ…。」
蒼太は不満げにため息をついて、厨房の方に向かって行った。
マイノさんが私の頭を優しく撫でる。蒼太の扱いには少し顔を顰めざるを得ないけど、私を心配してくれるのは嬉しかった。私は、蒼太から忘れられて悲しかっただけで、別に蒼太に怒りを覚えたわけではないと思っていたけれど、もしかしたら本当は、心のずっと奥の方では怒っていたのかもしれない。マイノさんの怒りは少しズレてるかもしれないが、私の内なる怒りを代弁してくれているようで、ちょっとだけスカッとした。
それはそうとして、早く誤解を解かないとだな…、と、さっきよりは冷静になってきた頭で考えた。
「…お茶ですっ、飲めますか?温度は大丈夫なはずですが…」
蒼太がお茶を渡してくれた。お茶の種類には詳しくないから、なんのお茶かはわからないけど、人肌程度に温められたお茶は、涙を流し尽くして乾いてしまった心に染み渡った。オレンジっぽい茶色の液体がカップの中で波打つのを眺めながら、どう誤解を解こうか、と考えてみる。
「…あの…。」
少し考えがまとまり、声を出そうとすると、すごく掠れた声が出てしまって恥ずかしかった。けれどもマイノさんはそんなこと気にも留めずに、
「ん?どうした?話せるかい、嬢ちゃん?」
と、優しく声をかけてくれた。
「…蒼太は、何も悪くないです…。」
ひとまず、この事実だけは伝えておかなければならないと思った。
「ほぉらね、言ったでしょう!僕は何もしてな…い゛っっ」
蒼太がしゃべっている途中でマイノさんの手刀が腰に飛んだ。
「…〜っ!暴力反対っ…。」
腰を抑えて涙目になる蒼太をよそに、マイノさんが続けた。
「で?何があんたをそんなに泣かせたんだい?」
「…あ…えっと…蒼太が私のことを忘れていたから…。でも、蒼太は記憶がちょっと抜けちゃってるみたいだし、仕方ないんじゃないかなって…思うん、ですけど…。」
「…記憶が…ねぇ…う〜む…。」
マイノさんは自身の腰に手を当てて、何やら考えているようだった。
「…そろそろ、蒼太にも教えてやらにゃいかんかもね…。この世界のこと。」
「え…?…なんでそうなるんですか?今はそんな話してないじゃないですか。」
蒼太が納得のいかない様子でマイノさんの顔を眺めている。
「…うるさいね。あんたは長い話聞くのが嫌なだけだろ。ちゃんと記憶と関係がある話だから。…これから話すのは、いいね。ここ、死後の世界についてのことだよ。」
続く