2.私を知らない
見上げると、刺激的な赤色が目に飛び込んできた。痛みはない。
ぼやけていた目がようやくピントを合わせた。さっきの赤色は木の葉っぱの色だ。私は木の下に寝転がっていた。周りを見渡すと、同じ色の木が沢山あった。ここは、森の中…?
「あっ!おにーちゃん、起きたよっ!」
声がした方を向くと、五歳くらいだろうか、小さな女の子が私を見つめていた。
「ちょうどよかった。今パティさんを呼んできたから…。」
女の子の後ろから声がした。男の子のようだ。
私は、今更ながら体が動くことに気づいた。起き上がって男の子の声がした方に目を凝らすと、十歳くらいの少年と、その後ろに、
あなたが、蒼太が、いた。
心配そうな顔をしてこちらに歩いてくる。
蒼太。蒼太。蒼太。あなた。会いたかった。会いたかった…。
心の底から喜びと愛しさが湧き上がってきた。私は人目も憚らず蒼太の方に駆け寄って、抱きついた。そして無我夢中でキスをした。
「そうたぁ…あいたかったよお…!」
情けない、涙の混じったか細い声が私の喉から発せられた。
その瞬間。蒼太は私を驚くほど強い力で引きはなした。
「…な、なにするんですか、いきなり…!」
その顔に照れや愛しさと言った感情はなかった。言うならば、恐怖と困惑。
さっきまでの興奮は勢いを無くし、絶望感が心に重く被さった。嫌な汗が出てくる。
「…えっ、ごめん。ごめんね?ごめんなさい…。」
嫌われたかもしれないという怖さから声が震えた。
蒼太は息を整えてから、
「…その…、きっと、混乱してらっしゃるんですよね。だから、大丈夫です。謝らなくて。」
私の目を見ずに言った。どうしてそんなによそよそしい言葉遣いなの?
「…どういうこと…?なんでそんなこと言うの?…あなた、蒼太でしょ?違うの?」
違うわけはない。私が蒼太を見間違えるわけがないんだ。
「…そ、そうですけど…。どうしてあなたが知って…?」
「…何言ってるの?私、蒼太の彼女だよ?知ってるに決まってるじゃん。あ!もしかしてそういう冗談?びっくりした…」
人違いを起こしたわけではないと安心して、一気に捲し立てると、
「えっ?ちが…おれ、僕に彼女なんか…いないはず…。」
すぐに否定された。
…違和感はあった。普段から蒼太は私を不安にさせるような冗談を飛ばす人じゃなかったから。本当に私のことを覚えていないのならもしかして、
「…あっ、記憶喪失だ!そうでしょ?」
「…う〜…ん…。微妙ですね…わかりません…。だって自分の名前は覚えてるんです…。…あの、確かに僕はあなたの知る蒼太かもしれませんが、あなたと恋人になった覚えは…!」
「…恋人だよ?だって私は覚えてるもの。私に関する記憶がすっぽりなくなっちゃってるってこと?寂しいなあ…。本当に私が誰か覚えてないの?愛依だよ。佐藤愛依。」
「…ごめんなさい、覚えて…ないです。すみません。」
この言葉で、ちくりと胸が痛んだ。どうして私のことあんなに大切に愛してくれていたのに、覚えてないの?
すると後ろの方でさっきの女の子の声がした。
「おねえちゃん、さっきはなんでパティさんにちゅーしたの?」
そう女の子が心底不思議そうに尋ねると、「こらっ」と小声で、女の子の兄と思わしき少年が言った。
「…パティさん…?」
そういえば、さっきも彼は子供達に「パティさん」と呼ばれていた。
「あだ名です…。この子達、店によく来てくれていて…。」
蒼太は恥ずかしそうに頬を染めた。私といた時にはあまり見せなかった表情だ。珍しい…。
「ああ、パティシエを縮めたあだ名ね!かわいいじゃん…!…あれ?ちなみに、店って何?」
「…近くにお菓子屋があって…、そこでパティシエやってるんですけど…。来ます?」
そう言ってちょこっと笑った。
パティシエ。甘いものが好きで、料理が好きで、人の笑顔が好きなあなたは、天職だって嬉しそうに笑ってたっけな…。このときの笑顔は、死ぬ間際にも一瞬思い出していた。蒼太の笑顔は眩しくて綺麗で、太陽みたいに暖かで、勇気をくれて、とっても大好き。
「もちろん行くよっ!」
そう言って私も笑顔を返した。最初は嫌われたのかと思ったけど、お店に誘ってくれるなら、そんなことはないよね!よかった。忘れられてるのはショックだったけど、嫌われてないなら、まだ生きていける。生きて…?あれ、生きてるっけ、私…。そもそもどうして蒼太は私のことを忘れてるの?ここはどこなんだろう…。疑問はたくさん浮かぶけど、まあ、これについて考えるのはお菓子を食べてからでもいいか。
「…ねえなんでちゅーしたの??」
性懲りも無く、女の子が言う。
陽に照らされた、鮮やかな赤い葉っぱがはらりと舞った。
続く