号笑 第十章 「夏野家の幸せ」
あの話し合いから数週間後。順がやっと退院するらしいので、病院まで迎えに行ったけれど、病棟114号室に順はいなかった。今はどこにいるのか看護師さんに聞くと、どうやら院長室にいるらしい。
だから院長室の扉の前まで来てみたけれど、何やら院長さんと2人で話をしていた。そういえば、この病院の院長さんは順のお爺さんなんだっけ。何の話をしているんだろう。盗み聞くようで心苦しかったが、好奇心には勝てず、扉の隙間から耳をすました。
「もし…俺が夏野家で暮らすことになったとして、母が刑期を終えた時は、どうなるんですか?戻ってくるんですか…?」
順の声だ。少し弱々しい声だった。
「…戻ってはこないよ。私から申請して、親権を剥奪させてもらったからね。そもそも、君を刺した人だ。君も会いたくはないだろう?」
院長さんが優しい声で言った。
「親権を…?それって、二度と会えないってことですか。」
「…二度と会えないことはないが、家族として一緒に住むことは出来なくなる。」
「…そうですか…それなら、いいんです。もう一度会えるなら。」
「…どうしてかね」
院長室さんが意外そうに言った。私も意外だった。順は母を憎んでるんじゃなかったのかな…?
「…だって、仮にも母です。俺の母親です。俺が最後に見た母の姿は、テレビの中で手錠をかけられている姿でした。俺から全く何も言えずに、これからずっと引き離されたままなんて嫌です。ちゃんとお別れを言えてませんから。」
さっきの弱々しさとはうってかわって、順らしい、堂々とした言い方だった。
「…君は…優しい子だね。あの子とは違う。」
『あの子』というのは順の母のことだろうか、と思った。
「…母だって、本当は優しい人なんですよ…。」
順が呟くように言った。小さい声だったけれど、なんとか聞き取れた。
「…申請が通ったら、君は嬉しいかい?」
院長さんの声。
「…まだわかりません。でも、陽毬のところでよかったとは思います…。」
この言葉にはドキッとさせられた。私のところでよかった…?どういう意味だろう。
「…ちなみにそれはどうしてかね?」
「夏野家は、俺の性質に関しての理解があると思うんです。他の家よりもずっと。」
「…そうだね。確か娘さんは君と同じような性質を持っていたと美香さんから聞いている。」
…なんだそういうことか…。私が好きだからとかじゃないんだ…。そう思ったが、そもそもそんな理由だったとして、順が自分の祖父にそんなことを言えるかどうか考えると、言えないだろうから、まだ可能性はあるなと勝手に想像した。
「…それで、本題に入るのだが……ああ、そこのお嬢さん、そんな場所にいないでどうぞ入ってきてくれたまえ。」
「!!??」
どうやら扉の隙間から聞いていたのがバレていたようだ。
「…えと、あの…すみません…。」
「別に構わんよ。ほら、椅子を出すから…」
院長さんは軽い調子で、朗らかに笑って立ち上がり、私のためにもう一脚椅子を持ってきてくれた。
「…なんか…ほんとすみません…。」
すごく気まずかった。まさかバレていたなんて思わなかった。順が相変わらずの無表情でこちらを見ていた。恥ずかしいし、なにより視線が痛かった。
「大丈夫大丈夫。これから大事なことを話す予定だったんだよ。まず順に話そうと思ってたんだけどね。2人ともに一気に伝えられるなら楽で助かった。」
「…え…あ、そうだったんですね…。」
私がぎこちなく返事をすると、順は私から院長さんへと視線を移した。
「…それで、じいさん。本題というのは?」
「…ああ、喜ぶといいよ。いいニュースだ。」
院長さんが微笑んだ。
「…申請が、通ったよ。」
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その次の日。ついに順達が私の家に引越しすることになった。
「…ここが俺の部屋かぁ…。」
順が大きな段ボールを三つも一度に運びながら、ある部屋のドアの前で立ち止まった。
この部屋は、もともとあまり使っていなくて、時間と共に倉庫と化していた部屋だ。中のものを片付けたら、意外とスペースが広いことがわかったので、ここを順と弟の直くん共用の部屋にすることが決まった。
「…そうだけど…。ところで重くないの?それ…。」
「大丈夫。」
部屋に入り、どすん、と音を立てて段ボールを床に置きながら順が言った。
「中に何が入ってるの?それ。」
「全部本だよ。教科書も混ざってるけど…。」
「…ふうん…すごい量だね…。普段どんな本読むの?」
「…参考書ー。」
「ええ…?嘘でしょ。」
順は、嘘じゃないよ、と言って段ボールを開けた。中には大量の参考書が入っていた。
「…うわぁ…マジなの…?」
「引いた?」
「ちょっと引く。」
「…ま、塾に行かなくても何とかなるように、買うだけ買ってみたけど、買えば賢くなるわけじゃないからね。やっぱ。」
「だから普段から読んでるの…?普通に塾に行けばいいんじゃ…。」
「…前の家はなあ…そういうのダメだったから…うん。」
「…あ、そうなんだ…なんかごめん…。」
「…別にいいよ。気にしてないし。…というか、姉なんだからもっと堂々としてていいと思うけど。」
順がそう言って笑った。ああ、そういえば私は今日からお姉さんになるんだった。
「…そうかな…。でも、いきなりは無理だよ。」
「確かに。まあ…さっきはああ言ったけど、別に無理に変わんなくてもいいよ。陽毬は陽毬だから…。あ、そうだ。姉上って呼んだほうがいい?」
手際よく本を段ボールから出して積み重ねながら、順が言った。
「あ、あねうえ…ってなんか堅苦しいなあ…。『姉さん』とかにしてよ…。」
「…ねえさんか…。わかったよ、姉さん。」
「…う〜ん…。」
初めて人に『姉さん』と呼ばれて、なんだかくすぐったかった。順だったからっていうのもあるかもしれないけど。
「ほーら陽毬!いちゃついてないでこっちも手伝って〜!」
背後から母の声がした。
「い、いちゃついてなんかないから!!ねっ、順!」
そうだよね、と順に聞くと、順は
「その通りだよ、姉さん。」
と言ってくすくす笑った。順って、こんなに笑う人だっけ。
机やら何やら運んだり、掃除したりしていたら、昼過ぎになっていた。
「あ〜、お腹すいたあ〜。」
リビングに順と2人で行くと、もう先に直くんがお昼ご飯を食べていた。もぐもぐと小さな口が動いていて、可愛らしい。
「直くん、何食べてるの?おいしい?」
と私が聞くと、
「ん」
と言って自分の皿を指差した。その小さな指の先には食べかけのうどんがあった。その仕草が可愛らしかったので、思わず直くんの頭を撫でていたら、順がその様子を見つめながら
「…なんか今の陽毬、めちゃくちゃ姉さんっぽいね…。」
と呟いた。
「…そう?順も撫でてあげようか?」
私がそう言うと
「いや…別に…」
と言ってこの場から離れていってしまった。
「そんなに嫌…?」
ちょっとショックだった。
そうこうしているうちに、母が全員分のうどんを用意してくれて、みんなで食べた。普段は母と2人だけで食べていたから、今日は机が狭く感じた。でも、家族が増えたことが何より嬉しかったから、これもまたいいか、と思えた。
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2人でリビングの大きな窓から星を眺めていると、順が言った。
「今日は楽しかった。」
「そう?よかった。」
「自分ちでこんなにテンション上がったの初めてだ!」
ああ、今日、順がよく笑ってたのはテンション高かったからか。
「割と普通のことでテンション上がるんだね。意外だなあ。」
「どう言う意味、それ。」
「なんでもないよ」
星が瞬いた。電気を消した部屋は、星の光だけでも結構明るい。
「全てから解き放たれた気分…。今は何もかも綺麗に見える。不思議だな…」
順が言った。
「…それ、私も前に思った。」
「そうなんだ。…いつ?」
「順がいじめられてた私を助けようとしてくれてたときにね。ほら、放課後に話したじゃん。」
「ああ…。うん。そっか。」
順が居心地悪そうに目を逸らした。
「なんで目を逸らすの?」
「あ〜…いや…」
「何か隠してるの?」
「…。わかった。これは言うか迷ったんだけど…言っても怒らないでくれよ…」
「それは内容によるよ…。」
「そうだよな。うん。あの…」
逸らした目を星空に移して、目に星の光を投影しながら喋り出した。
「ひま…姉さんをいじめてた、橋下美幸っていただろ。で、橋下が急遽転校したことで、いじめは徐々に無くなっていったんだよな。」
「うん。」
「橋下が転校した理由って知ってる?」
「知らないけど…大体、転校って言ったらお父さんの転勤とかが理由じゃない?」
「そう。橋下もその理由で転校になったんだ。」
別に、今聞いた話には順との関連性が無いから、怒る要素があるのか分からない。相変わらず双の黒曜石からは感情が読めなかった。
「…で、美幸と順になんの関係があるの?」
「うん。そこなんだけど…橋下の父親がさ…、俺の弟の、直の父でもあるんだよ。」
「はあ…!?」
この人はいきなり何を言っているんだと思ったが、順はこんな悪趣味な嘘をつく人じゃ無いことはずっと前からわかっていた。
「まあ、浮気してたんだよその男。だからそのことを美幸に言ったら、美幸から大人に勝手に情報が、ウイルスみたいに広がっていって、ほっといてたら転校してたんだ。浮気がバレたことが原因で父が転勤…というか左遷したから。」
左遷って、確か今よりも低い役職に異動することだったよね…。浮気ってそういう処分が下されるんだ…。と、順の横顔を見つめながら思った。
「…じゃあ、私をいじめから救ってくれたのは、順なんだね。」
「…う〜ん…俺は美幸に浮気をチクっただけだし、他には何もしてないし…。それに他人の家族を壊してしまった…。俺の母にもぶん殴られたし。」
「…でも、家族が壊れたのは自業自得じゃん。順は正しいことをしただけだよ。大丈夫!それより、助けてくれてありがと…!!」
「…そうか…そうなのかな…。」
順が自信なさげに俯いた。
「うん!」
「あ、見て。流れ星じゃない?」
「どこ?」
窓を開けて、身を乗り出して探したけれど、見つからなかった。
「もういなくなっちゃったみたい」
そう言って笑ってみせた。順も自然な笑顔で笑っていた。前、病棟114号室で見たぎこちない笑顔とは大違いだ。
「あのさ、どうしても気になってることがあって。…病院で盗み聞きしちゃったんだけど…順って自分のお母さんのこと嫌いじゃないの?」
「…うん。嫌いじゃない。だって、あの人だって被害者なんだ。」
「なんで?」
「母は素直な人でさ。素直さゆえに、悪にもたぶらかされやすいっていうか。悪い男に騙されやすいんだ。陽太…覚えてる?夏野陽太…。母はあいつと別れた後も、ずっと陽太の幻影に怯えてた。俺の目元に残るあいつの面影にも。今までずっと、ずっと怯え続けて、精神が疲弊してたんだ。陽太さえいなければ、母は俺を殴ることも殺しかけることも無かった。母が逮捕されることも無かったんだ。」
順は、言い終わってから静かに俯いた。昔の嫌なことを思い出したのだろう。少し顰めっ面だ。
「…そっか。…本当に、大変だったね…。この家には、順のお母さんはいないけど…、私、精一杯順を支えていくから…姉としてね。なんか、どうでもいいことでも全然いいから、悩み事とかいっぱい話して。今でもいいし…、ね?」
順がこちらに視線を移した。見開かれた黒曜石には星が映っていて、さっきとは打って変わってなんだかすこし嬉しそうだった。
「…うん。でも、もう今は無いよ。聞いてくれてありがとう。」
「そっか…。あ、もう十時だ。そろそろ寝た方がいいね…。おやすみ。順。」
「…おやすみ。…姉さんは…変なやつと結婚しないで………。」
小さな声だったので、あまり聞き取れなかった。
「え?」
「なんでもないよ。おやすみ。」
「?…うん…。」
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翌朝。朝ごはんを食べている時、隣に順がいるのが信じられなかった。順も同じ気持ちなようで、ぼーっとした顔でたまに私の方を見ては、「陽毬がいる…」と呟いていた。
学校には、順と私の2人で行くことになった。一緒に学校に行くのは姉の務めだと思ったからだ。直は私たちより遅く出るから、残念ながら一緒には行けない。
ドアを開けて、2人で並んで家を出ると、そこにはいつものように家の前で私を待っていたのであろう日奈子が、目を丸くしてこちらを見ていた。しまった。完全にこの子のこと忘れてた。まだ順と家族になったことを教えていないのだ。
「…へっ????」
何も知らずに私1人だけを待っていた日奈子が、隣にいる順を凝視する。順は気まずそうに私の方を見て、アイコンタクトで助けを求めてきた。
「…あ〜…その…。…は、話せば長くなるんだけど〜…」
私は努めて平静を装いながら言った…、一方で声は震えていた気がする。
3人で学校へと歩きながら事情を説明した。順も説明を手伝ってくれた。
「はぁ〜…。陽毬と猫井が姉弟か…。なんか顔似てると思ってたけど…。」
説明が終わってからしばらくして、日奈子が言った。説明中と同じく、不思議そうな顔をしている。すると、
「もう猫井じゃない。」
と順がきっぱりと言った。
「あ、そうだった、ごめんごめん…!慣れないなあ〜…。今はどっちも夏野さんなんだね…。なんて呼んだらいい?」
「順でいいよ。」
「順ね、おっけ〜!」
日奈子は相変わらずフレンドリーだ。私たちが姉弟であることを簡単に受け入れてくれる、優しい人。日奈子と友達でよかったと思った。
橋の近くを通りかかったとき、背後から声が聞こえてきた。
「順〜!」
「?」
私が振り向くと、そこには目にかかりそうなほど長い前髪の男子がいた。同じ制服だから、中学もきっと一緒なのだろう。
順も振り向いた。
「あ、柳…。」
「なになに?順の友達?」
と日奈子が興味津々な様子で言った。
「うん。」
すると順から『柳』と呼ばれた人は私たちを見て、次に順を見て笑った。
「順、なんで女の子達と登校してんの?」
「…1人は姉、もう1人はその友達。」
「姉…?」
柳は笑いの途中でぽかんとした顔で固まった。
「また、説明しなきゃだね…。」
日奈子が苦笑いした。
登校時の話は、ほぼ全て私たちの関係の説明で終わった。学校に着くと、また説明会が始まった。家族が増えるって忙しいんだな…。帰り道に聞いたけど、順も同じように大変だったそうだ。順は私と違って、苗字まで変わってるから、大変さはきっと私よりも大きかったはずだ。けれども順は少しだけ嬉しそうだった。西の方にすこし夕焼け色が滲んでいる。不思議と順の足取りがいつもより軽い気がした。
家に帰ってすぐに順が言った。
「お母さん!!ユキは!?いる!?」
びっくりするぐらいテンションが高い。それよりユキって誰だろ?
「しっかりいるわよ〜。びっくりしちゃうからゆっくり来なさいね。」
お母さんにそう言われて、順は今にも駆け出しそうになっていた足を止めた。そしてゆったり歩きながらリビングまで行き、後ろを歩いていた私の方を振り返った。
「姉さん、ちょっと今まで隠してたんだけど…驚かせたくて。」
「…なあに?」
リビングのソファの方を見ると、お母さんが白と茶色のふわふわした何かを抱えているのが見えた。
「家族がまた増えるんだ…。」
順が嬉しそうに言った。お母さんが抱いているふわふわがこちらを向いた。これは…猫だ。
「学校に貼ってあるポスター、姉さんは見た?捨て猫のやつ。」
「…見た気もするけど…。」
「それで、昨日お母さんにポスターの話をしたんだ。そしたら、うちで飼おうって言ってくれてさ。」
「…わぁ…そうなの…?じゃあ、この子がユキ?」
「うん。俺がつけた。」
ユキって普通白猫につける名前じゃないの、という言葉を飲み込んで、ユキの方を見た。お母さんの腕の中が心地いいのだろうか。大人しくしている。
「かわいい…。」
「だよな。」
2人の人間に見つめられようとも、ユキはうんともすんとも言わず、今にも眠り込みそうなぐらいリラックスしている。先に帰っていた直はお母さんの隣ですやすやと寝息を立てて眠っていた。
今、この空間には幸せが満ちていた。もう、二度と号笑することなんてありえないぐらい。
窓から夕焼けが差し込んだ。四つの黒曜石はいつまでも、いつまでも煌めいていた。
号笑 完